「いずみずむ」なりろん
2002/07/14 初版
2002/07/19 1.2版 2003/09/23 1.2.1版
(近日更新部青色)

目次

まえがき

竹本泉作品と少女漫画
〜典型的少女漫画からの離脱〜

竹本泉作品とファンタジー
〜前篇・そもそもファンタジーとはなんだろうか?〜


【まえがき】

 復活後のディズニーが自らへの影響力を認めるほど、日本および世界のアニメーション界で堂々たる地位を築き上げている宮崎駿であるが、彼の作品群に対する批評として

「言ってしまえば『美少女』『メカ』『アクション』という王道を行っているだけでしょ」

と書かれてあるのを読んだことがある気がする。私からすれば、その三要素を満たしているジャパニメーションが腐るほどある中で、そうじゃない所があるからこそ今の宮崎駿があると思うのだが、一方で先程の三要素がない宮崎駿のアニメーションを想像したとき、ひどく素っ気ないものになる気がするのは確かに事実である。

 では同様に、竹本泉作品での三要素というのはなんだろうか。

『少女漫画』『ファンタジー』『コメディ』

こんなところだろうか。だが面白いと思うのは、少女漫画であるような無いような、ファンタジーであるような無いような、コメディであるような無いような、竹本作品の雰囲気はそう言ったある種曖昧さの部分、それらの融合した独特な部分なのではないかと思う。

 ここでは改めて竹本作品が持つ独特の魅力について検討し、論じてみることにする。


竹本泉作品と少女漫画
〜典型的少女漫画からの離脱〜

 竹本泉氏は長く「少女漫画家(少女漫画の漫画家)」を標榜してきた。確かにその出身は少女漫画雑誌『なかよし』からであり、彼の名前を広めたのは『あおいちゃんパニック!』であったし、その後の漫画もどこかで少女漫画的な牧歌的な雰囲気を残している。

 上での3要素の中には入れられないが、竹本泉を語る際に忘れられないのが『あとがき漫画家』という点であり、すなわち後書きを書くのが大好きな漫画家なわけであるが、その中で彼はこう吐露している。

「少女漫画家でなく、ただの漫画家になってしまうと...なんかただのロリーな絵柄の作家になっちゃうからなんだよーっ」

 けれども言うまでもなく竹本泉氏の作品はそんな単純なものではない。確かに竹本氏の作品の絵柄は可愛いいのは誰しも認めるとこであろうし、そこも魅力の一つだが、それは竹本作品の漫画の魅力の一要素にしか過ぎない。

 そもそもたとえロリーな絵柄にしても、竹本氏の絵柄の魅力は独特なものだ。竹本氏はインタビューで大学の漫画研究会に入らなかった理由に、そういう所に入るとそこでの上手い人のレベルで止まってしまうことを挙げているが、その效果があったのか分からないが、彼の絵柄の可愛さとユニークさは独特なものに育っていると言える。

 竹本泉氏の敬愛する漫画家は和田慎二(代表作「スケバン刑事」など)であり、彼の作品の影響の元で少女漫画家の道を選んだそうだが、和田氏は少女漫画家ではあるものの、竹本氏のロリーな絵柄とは全く違い、男性的なものを強く感じさせる。それに対して竹本氏の絵柄は丸っこくって、女性が書いていても全くおかしくない雰囲気である。

 その昔、ある女性漫画家がたまたま竹本氏と手紙でやり取りを始めたが、その女性漫画家は最初てっきり竹本氏を女性だと思いこみ、その状態でしばらくやり取りを続けているうちに「?」となってきたので、確認したら男だった、という笑い話があったらしい。

 さて、始めの所でアニメーションの魅力は『美少女』『メカ』『アクション』と述べたが、無論これは少年的な視点で主に語ったものである。その視点で見た場合、竹本作品は実はかなり落第であることが感じられる。

 まず『メカ』を描くのが御世辞にも上手いとは言えない。何しろ普通だったら定規で描くだろう線を手書きで描いてしまうくらいなので、メカもなんだか丸みを帯びた可愛らしげなものになってしまう。宮崎駿のメカも丸みを帯びた所が魅力に挙げられることがあるが、十二分に計算された宮崎氏のメカ描画(宮崎氏は何しろ飛行機マニアである)に対して、竹本氏のメカはメカというのも憚られるほどである。そして何より、竹本氏自身が恐らく自分の作品が立派なメカもの漫画になることを望んでいない。

 そして『アクション』に関してもやはり似たところがある。確かに竹本氏の漫画の少年少女は元気に走ってくれるのであるが、スリリングなアクションが今ひとつ盛り上がりに描けるのは『トランジスタにヴィーナス』でそれが現れているではないか。

 そして残る『美少女』に関しては、自ら「ロリーな絵柄」と言っているようにあくまで『可愛い少女(少年)』であって、『少女』と言えるかは....難しい。

 少年がアニメに惹かれる三大要素を満たしていないことが、そもそも竹本漫画が『少女漫画』であることにも繋がるのではないか?.....

....と思いたいのであるが、実はそうではない。

 少女漫画にも多様性があって一言では言えないはずであるが、例えば『エヴァンゲリオン・スタイル(*1)などの記述を読むと少女漫画の特徴として延々たる心理描写の存在が挙げられている。残念ながら私は少女漫画をほとんど読んでいない。だからよく分からないが、いくつか読んだ時には確かにそういう印象、すなわち心理描写の冗長性の印象を抱くものが多かった。

(*1)数多いエヴァ関係本の一つ。十数名の各専門家が自分の立場から、社会的なブームを引き起こしたEVAを分析している本であるが興味深い評論が多い。

 その点で竹本氏の2003年現在の作風は決して少女漫画的ではない。その一方で、竹本氏の漫画が実際に少女漫画だった頃の初期作品では確かにその少女漫画としての要素があったのである。

 例えば『なかよし』に掲載された『パイナップルみたい▽』という作品は、一巻丸ごと、恋心に興味を持ち始めた少女の話であるが、まさしくストーリーのかなりの中で少女の心理的描写が描かれる。これはその後の竹本作品に惹かれた私などから見ると驚天動地の作品である。

 すなわち竹本氏が「恋愛」というものをテーマにして、それだけで一貫した一冊分の話を描いていること自体が非常に驚きなのだ。これは少女の心理的描写と、それとともに起こるイベントが絡みあいながら、ゆるゆると進むことによって可能だったと思われる。

 同様の少女漫画的雰囲気を持つ『ちょっとコマーシャル』の「すすみ時計は大嫌い」「1+1=3ドイッチ」などにも同様の少女漫画的要素が強く強く感じられる。すなわち、やはりそれらは『なかよし』時代の作品であるが、心理描写が重要な物語の推進力になっているのである。

 無論、必ずしもそのような心理描写が無ければ少女漫画といえないかというと、そんなことはないわけであるが、しかし実際、竹本氏が少女漫画から離れて行くにつれ、上のような心理描写を主体とする作品は皆無になり、物語(ストーリー)主体の漫画がほとんどになっていくのである。

 それでは竹本泉の作品が目指した方向はどのようなものであったのだろうか?


竹本泉作品とファンタジー
〜前篇・そもそもファンタジーとはなんだろうか?〜

 「ファンタジー」という分野がある。これを辞書などでひくと「空想文学作品」と出てくるが、現在の日本ではかなり広い範囲の作品を対象に使われているようだ。私がここで「ファンタジー」なる語を持ち出してきたのは、竹本泉を紹介した文で「日本でファンタジー漫画家として成功している数少ない一人」と書かれていたのが印象に残っているからだ。

 では「ファンタジー」とはなんなのだろう?その定義はなんなのか。

 現在「ファンタジー」と呼ばれる分野は小説、漫画、映画、ゲームなどなど、あらゆる作品に広がっており、その言葉だけからどんな内容かを想像することは困難になっている。特にファンタジーの語源である英語文化圈のファンタジー分野の変遷と、それに影響を受けながらも独自の小説、漫画、アニメーションを豊富に生みだしてきた日本での変遷は異なる所もある。

 日本において様々なジャンルの作品でファンタジーという言葉が用いられてきたことに関しては「和製ファンタジーのルーツに関するリンク集」の中で有里氏によって一部紹介されている。更に有里氏は自分の感覚からファンタジーと呼べるものとそうでないものを分類しているが、この中では1989年に設立された「日本ファンタジーノベル大賞」の第一回受賞作品である酒見賢一『後宮小説』などが、今ひとつファンタジーと呼ぶにしっくりいかないことに言及している。『後宮小説』は私も好きな作品なのであるが、ファンタジー小説かという観点では有里氏と同様な感覚があった。そのような考えが存在する一方で、akira氏などは『ファンタジー小説とは?』の中で、作家達の想像力に枷を填めない荒俣宏氏の観点に共感した旨を述べている。

 極めて多様化してしまった日本のファンタジーは取りあえず置いておこう。整理する上ではむしろ原点にたち戻ってみた方がよい。すなわちファンタジーに関する分類と系譜に関してはYu-ki_Watanabe氏の論文「現代日本ファンタジー文学私論」の前半で簡潔にまとめられているが、たとえばファンタジーが何かを説明する際に、むしろ類似作品であるホラーやSF(サイエンスフィクション)、神話などからの違いを強調することで浮き立たせようする考え方があるという。

 たとえば米国作家ピアズ・アンソニイは「SFは可能性の文学であり、ファンタジイは不可能性の文学である」と述べているそうで、これは現代科学の延長上で考えるとき、将来起こりうる可能性のある(あるいは起こらないとは断定できない)フィクションをSFとし、魔法や超能力など、現代の科学理論から考えれば人類が経験することが不可能な技術、能力、現象により出来事が発生する物語をファンタジーとしているという。

 この定義は前述のakira氏がかつての自分がファンタジーの定義としていた

『現実とは違った因果律や歴史、自然法則が支配する世界を舞台としている小説』

という考え方に近いと言えよう。もっともその時に「〜が支配する世界を舞台」というのはファンタジーの対象を大きく狹めてしまうものであり、もっと緩やかに言えば

現在の科学理論の延長上、人類が経験することが不可能だと考えられる法則、技術、能力、現象が物語を推進する原動力になっている作品

と言えるのではないかと思う。tshp氏は『ファンタジーは非ユークリッド幾何学の世界?』の中で同様な考え方を示し、SFをファンタジーから明確に切り離すと共に、得てしてファンタジーの名を冠して騙られることの多い宮崎駿氏のアニメーション作品を前述のような観点から「純ファンタジー」「中間ファンタジー」「非ファンタジー」の三者に分類している。

 この定義を用いた場合、『後宮小説』などを筆頭とする架空歴史小説はファンタジーの範疇に明らかに入らないことになる。それから田中芳樹氏の『銀河英雄伝説』なども入らないだろう。その一方で、米国などにおいてそもそもファンタジーの名が付けられるようになった「剣と魔法の世界」を舞台とした英雄小説(ヒロイック・ファンタジー)が典型的なファンタジーであることを頷かせてくれる。

 もっともそれでもこの定義には曖昧な部分を含んでいることは否めない。「現在の科学理論上」「考えられる」という二つの部分は必ずしも絶対的、客観的なものではない。すなわち上の定義を用いたとき、現在の科学力の面の大きさを十分に大きくとらえている人にとっては、宇宙人もUFOもお化けの話も所詮は起こるはずのないファンタジーであるが、現代科学の限界を感じている人、またむ現代科学の力に不信感を持つ人にとっては必ずしもファンタジーだと感じない場合が起こり得ることになってしまう。

 さらに境界性の微妙な作品群を考えてみると面白い。すでに日本人のみならず、アジア全体の子供達に受け入れられている藤子・F・不二男の漫画・アニメーション作品がファンタジーかどうかを考えてみよう。おそらく多くの人にとっては「あり得ない」感じる話なのは確かだが、上の定義で考えたとき、なかなか簡単には言い切れない難しさを持っている。その意味には二つの点がある。

 1番目の点についてであるが、たとえば「ドラえもん」のような作品の場合には現代科学の延長として「1〜2世紀後にはいろいろ便利な道具が出来ているはずだ」という仮定の物語の中なのであるが、その便利な道具の中には本当にあり得そうなものから、やはり「ファンタジー」としか思えないようなものまで様々に幅があり、それらがかなり融合している。だが本当に難しいのは1番目ではない。なぜなら「ドラえもん」以外の藤子・F・不二男作品はむしろ1番目の点に関してはあり得るはずのないことと断定せざるをえない場合が多いからだ。

 ところが二番目の関して考えたときに、果たして話の主体がファンタジー的かどうかを問われると返答に窮せざるを得ない。すなわち藤子・F・不二男作品で描かれる世界は20世紀の日本の子供達の日常を描いている部分が大変大きく、「ファンタジー溢れる」というよりもむしろ現実的な面が強いからである。

 親からは宿題しろや勉強しろと言われ、学校の先生には怒られ、いじめっ子とその取り卷きにつつかれる、でもクラスにはちょっと憧れる女の子がいて仲良しだ、そのような世界は大人が読んだ場合よりも子供にとっては極めて親しみのある、場合によっては痛々しいくらいの世界観であり、しかもそこで起こるドタバタ劇は

人類が経験することが不可能だと考えられる法則、技術、能力を基礎として発生する摩訶不思議な現象

というよりも、至極現実的な因果律から成立している世界である面が強い。このような物語を、剣と魔法の物語であるヒロイック・ファンタジーやミハイル・エンデの「はてしない物語」などと果たして一緒の枠組みに入れて良いのであろうか?

 他にも微妙な例はたくさんあると思われる。たとえばショート・ショート小説で知られる星新一氏(参考サイト:「星新一のにぎやかな部屋」)は日本SF作家クラブの一員として日本へSF(サイエンスフィクション)という概念を持ち込んだ第一人者の一人であり、SF作家として紹介されることが多いようであるが、むしろ私は彼の作品は大概がファンタジーなのではないかと思う。舞台としては(必ずしもそうではないが)機械化の進んだ未来だったり、宇宙だったりするわけであるが、その中で発生する出来事というのはむしろファンタジックな現象などであることが多い気がするのだ。

 いずれにせよ、「SF、ファンタジー、ホラー」はその境界が曖昧なものとしてしばしば扱われ、実際60年代に日本へ紹介された当初は両者混合して紹介されることが多かったらしい。

 SFとファンタジーとの境界を語るのとは別に、童話あるいは児童文学とファンタジーとの関連性に関しても一考する余地がある。「SF・ホラー・ファンタジー」という分類とは別に「児童文学・ファンタジー」という括りがされることがママあるし、1995年から児童文学ファンタジー大賞というものも設けられている。

 実を言うと私にとってファンタジーの原点と言えば(「ドラえもん」を除けば)佐藤さとる氏のコロボックルシリーズであった。もはや隨分長く読んでいないので、上の定義に照らして本当にファンタジーと言えるかどうかは正直覚えていないけれども今考えてもあれはファンタジー小説だったと思う。

 しばしば参考として出してきた宮崎駿であるが、彼は大学在学中は漫画研究会が無かったことから児童文学研究会に所属していた。氏の場合はそこで「児童文学」を研究していたかどうか疑わしいが、彼のアニメーションを作る動機として「子供達の為の作品を」というものが一貫して存在することは見逃せない重要な点である。これは宮崎氏に大きな影響を与えた高畑勲とは異なる、彼独自の確固たる立場なのだ。

 なお興味深いことに作家・荻原規子女史はサイト上のエッセー「ファンタジーとは何か」で、ファンタジーという定義づけに拘ることの虚しさについて言及している。女史が大学で児童文学を研究をした際、日本ではファンタジーと呼ばれるような作品群が十二分には発生していなかった。その中でファンタジーの定義を試みようとする行為について

「結果としてわかったことは、定義づけがむなしいということだけだったようです」

と結論づけている。更には

「わたしの想定するファンタジーらしさのあるファンタジー作品は、最も顕著な特徴として、『要約できない』という特質をそなえている」

という実にユニークな「(自分の)ファンタジー判別法」を述べている。だがここでの女史の捉え方はファンタジーを分析しようという姿勢よりも、まさしく作家らしい立場である。すなわち上述の発言をしてこそ初めて独自の作品世界を築くことが可能となったということ、周辺状況を見回せば、星新一氏などを代表とするSF・ファンタジー作品紹介・萌芽の時期であった60年代・70年代を過ぎ、日本で独自のファンタジー作品がブームに近い形で次々とを生みだされるようになった80年代の作家らしいファンタジー観であると言えるのではなかろうか。そのような点では前述したファンタジーの定義を極めて幅広く取ろうとする荒俣宏氏の考えも理解できないこともなく、荻原女史の考えに極めて通じるものがあろう。

 けれども少なくとも読者である、読者でしかない我々が、そのような「定義づけ」のもたらす「虚しさ」に縛られなくても良いように思う。すなわちファンタジーであろうとなかろうと面白いものは面白いのであって、「ファンタジーか否か」は作品自体の評価に反映させる必要は全くない。読者の大部分は「ファンタジーだから読む」わけでもないし、「ファンタジーじゃないから読まない」わけでもないだろう。

 「ファンタジー」という語を用いて作品を検討するのは、自分が素晴らしい、面白いと思った作品に対して、どこが面白いのか、その原因は何なのか、それを探ろうとする際に「分野という枠組み」から迫ろうとするだけであり、それは決して虚しいことではないと思う。

 それでは付け焼き刃ではあるがなんとなくファンタジーというものがどんなものかが見えてきた所で、竹本泉作品におけるファンタジーを考えてみよう。

他参考頁:


(続く)


(C)竹本泉だいなあいらん』(ゲームアーツ)